深川を知る

深川の発祥と深川八郎右衛門

今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人も未だありませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられています)という人が一族を引き連れて移り住み、この土地の開拓に着手しました。

 古記録によると、徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、徳川家康公が当地を巡視の折、八郎右衛門を召して地名を訪ねたそうです。八郎右衛門が「まだ住む人も少なく、地名もない」と答えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を採って「深川村」とするよう命じました。そして、開拓の功績により八郎右衛門を深川村の名主に任じました。

深川発祥の地・深川神明宮

明治中期の深川神明宮絵図 深川神明宮所蔵文書「神社取調書」(明治28年5月28日)より
明治中期の深川神明宮絵図
深川神明宮所蔵文書「神社取調書」(明治28年5月28日)より

 深川八郎右衛門は敬神の念が篤く、かねてから崇敬する伊勢の皇大神宮(神明さま)の御分霊(わけみたま)を屋敷の一隅の小祠(ほこら)におまつりし、開拓民の幸福と当地の発展を祈願しました。やがて、深川村は江戸の繁栄と共に発展し、多くの人々が住む賑やかな町となりました。深川氏の屋敷の一隅に小祠は、いつしか「深川総鎮守神明宮」と称せられ、深川の氏神様として人々に崇敬されるようになりました。

 開拓当初は、現在の森下周辺の地名であった「深川」は、その後、海に向かって南へ南へと発展し、今日では門前仲町や木場を含む、江東区西部一帯をさす知名となっていますが、深川の地の発祥は、深川神明宮の鎮座する森下の地なのです。

深川氏のその後

挿絵・深川氏家紋「いも洗い紋」
挿絵・深川氏家紋「いも洗い紋」

 深川村開拓の功績により、深川氏は代々深川二十七カ町の名主を務めましたが、宝暦7年(1757)七代目・深川八郎右衛門のとき、深川在方組合の跡式の引き継ぎの際の落度で、八郎右衛門が一同の罪を引き受けて入牢し、まもなく死去したため、家名は断絶し、一族は離散してしまいました。そのおり、旧記などすべてが散逸したといわれています。

homeowner loans . upmaker.org . https://bosnerkramer684.wixsite.com/nonohairremoval . SourceAmerica Careers and Employment  深川氏が一身に罪を引き受け、累を他におよぼさなかったことを徳とする深川の人々は、深川氏の遺徳をしのび、追善供養を怠らなかったといいます。その後、この法要もいつのまにか途絶えては、また人々が相談して復活する、ということがくり返されました。今日では毎年十一月三日に、深川氏の菩提寺の泉養寺(市川市国府台)で追善供養が営まれています。また深川氏ゆかりの深川神明宮、砂町天祖神社の氏子有志が四月に泉養寺の深川氏の墓にお参りし、郷土の先人に感謝の誠を捧げています。

深川氏の菩提寺・泉養寺と神明宮

 深川氏の菩提寺、泉養寺は初代・深川八郎右衛門の兄・秀順法印により慶長元年に神明宮の社地の南に建立され、代々の住職が神明宮の別当を務めました。元禄6年(1693)猿江に移転してからは、社頭に社僧をおいて社務を取り扱いました。猿江の寺の境内の蓮池は、重弁紅花の蓮花で名高く、多くの参詣人や文人墨客で賑わいました。寛政5年(1793)には勧進相撲の興行も行われたと記録されています。

 泉養寺は関東大震災の後、市川市国府台に移転しました。江戸川の川風に誘われて泉養寺を訪ね、深川氏の墓前に手を合わせて、深川の地の開拓者の遺徳をしのんでみてはいかがでしょう。

資料提供、文章協力:深川神明宮


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